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保母国家試験の思い出
2008年08月23日 (土) | 編集 |
夏になると思いだすことが色々ある。
その中でも今思うとけっこうヒヤヒヤするのが、もう20年以上前の、保母資格の国家試験の思い出である。
#今は「保育士」当時は「保母」

高校の保育科に通っていた私は、3年生の夏が勝負の夏だった。
国家試験では、
・社会福祉
・児童福祉
・児童心理学及び精神保健
・保健衛生学及び生理学
・看護学及び実習
・栄養学及び実習
・保育原理及び教育原理
・保育実習
の8科目10教科の筆記試験で、[保育実習]は筆記合格の後に2次試験(実技)にも合格しなくてはならない。
国家試験は各県ごとに時期も出題内容も任された状態で行われており、教科ごとの合否判定が出て、3年以内にすべての教科(2次も含め)に合格すれば資格取得となる。複数の県を受験してその結果の合わせ技でもOKなので、その学校では地元だけでなく近隣の県へも出向いて受験していた。
また大前提として、その後無事に高校を卒業しなければならない。
(現在の国家試験状況は情報サイトで確認されたし)

私が受験した年の2年前までは、近隣Y県では比較的問題が簡単だった上に夏と冬に試験を実施しており、夏にとりこぼしがあった者は冬までに残りを集中勉強して卒業に間に合わせることができたという。そのため合格率はほぼ100%、資格がとれないまま卒業する者は数年にひとりいる程度という状況を誇っていた学校だった。しかし私のひとつ上の先輩の時からどの県も夏1回の実施になり、その年の合格率はいっきに70%程度に落ち込んで私たち後輩を大いにビビらせていた。

とりこぼせない。とりこぼして来年また受験だなんて絶対に嫌だった。
とにかくその夏にすべてをかけるしかない。
3年間勉強してきたんだから、と17歳の私は初めて本気で燃えた。
自分の偏差値からみて随分ラクに入れたその高校で、私はそれまで本気で勉強する事もなくそれなりに成績上位をキープしてきた。
問題を起こして停学になった時には、副担任が深いため息とともに
「あなた余裕がありすぎるのよ。今までの貯金で遊びながらでもやっていけるものね。馬鹿らしくてやってられないんでしょ?わからなくもないけど、あなたみたいな子は正直扱いづらいわ」
と嘆いたことも記憶している。副担任はとてもいい人で嫌いじゃなかったのに、あの言葉にモヤモヤしてテストを白紙で提出したこともあった。今思えば本当に扱いづらい。しかも大事なところでキッチリ好成績をとりにいくかなり性格のねじれた嫌な生徒だった。
でも国家試験は授業成績とは別だ。たとえクラスで成績1番だったとしても、国家試験に合格できなかったら保育科的には「残念な生徒」に陥落する。
停学になるほどの素行不良さがある反面、長い休みのたびに自主的に保育実習に行き、現場で鍛えてもらっていた私には、プライドがあった。
他の生徒が良い子ぶった顔の裏で隠れてバイトにあけくれている夏休みも、私は毎日保育園で実習をしていたんだ。朝7時過ぎから夜6時半頃まで、もう帰っていいよと言われても毎日1分でも長く現場の勉強をしたくて…たとえ家に一歩入った瞬間にクタクタになって爆睡しても。夏休み明けの社会科系のテストのサービス問題「甲子園で優勝した○○高校は何県?」が、甲子園もニュースも見ていなくて答えられず満点を逃し先生に笑われ、悔しい思いをしたこともあった。
学校では、今までこんなに現場に出た生徒はいなかったと言われていた。
私だって、自分でも頑張っていると思っていた。
こんなに頑張って合格できなかったら……
そんなの絶対に嫌だと思った。
当時の彼氏は「お前気づくのおせーよ」と笑いながら、一生を左右することだから死ぬ気でやれ、絶対うかれ、と応援してくれた。彼もまた別の国家試験を目指す大学生で、今こそ大勝負の時だという事をよく分かってくれていた。

そして私のとんでもない夏が始まった。



※ふた昔前の話です。現状は大きく変化している可能性があります。この記事中の試験科目・2次試験内容・難易度等を現在の国家試験の参考になさらないようお願いします。そのテの情報は個人サイトがたくさんありますのでそちらでしっかりした新しい情報を得ることをおすすめします。


気がかりはただ一点、保育実習だった。
前年度の先輩ではこの2次で泣いた人が多かったという。
まずは1次試験に合格しなくては話にならないが、地元静岡試験と隣の神奈川試験では、事前講習会(全教科を1日づつ講習)に2週間通って出題傾向も把握していたし、先輩達から引き継がれた過去問題集もあった。
比較的やさしいというY県は静岡と日程が重なり受験できないという不運があり、過去に踏み出した事がない愛知県まで受験に行くことが学校で決められたが、事前講習会にも行けず、難易度も高めだと聞かされたので、静岡と神奈川にかけるしかないだろう。

そして保育実習、まんまと静岡で一次落ち。
正直言ってまったく想定外だった。

残すは神奈川と愛知。もう神奈川にかけるしかない。愛知なんて一次すらクラスの4分の1しか合格しなかったのだ。2次なんてとんでもない。

そして神奈川2次試験。まずはピアノ。
・・・ピアノ? ─── ピアノは?
そこに待っていたのはエレクトーンだった。
エレクトーンがどこかの音楽教室の何倍かの規模で、ざっと見て50台は並んでいる。受験番号ごとに割り当てられたエレクトーンに着席し、5分程度エレクトーンのタッチを確認する時間を与えられたあと、列ごとに試験管がついて前の方から一人ずつ弾かせてゆく。
私は大変とまどっていた。
つかコレってピアノじゃないじゃん。ffもppもねーだろ。弾けねぇよ!
なんで鍵盤が2段あるんだよ、どっちで弾くんだよ、…どっちでもいいって何それ?それになんか幅感覚もヘン。これ鍵盤並んでる幅ピアノと違うじゃん!すっげ~調子狂うんだけど?
いつもの癖で右足を置きたいポジションにエレクトーン特有の足鍵盤があるのも邪魔。
平然としているクラスメイトをよそに、不器用ゆえ焦る私のところへ、紫のアイシャドーをべったり塗った「魔女アースラ」のようなオヴァ試験管が徐々に近づいてきている。そこに微笑みなどない。別の列の試験官はフレンドリー(リラックスして~と声をかけたり、つまづいてしまった箇所をやり直してみてと言ったり)な人もいたのに、アースラは弾く曲の指示以外は終始無言で、氷のように冷えた目つきで受験生たちの演奏を真横からただ注視していた。なんという恐ろしい光景…。今なら、感情を挟まずピアノ技術だけを見るタイプの試験管だったのかなと考えることもできるが、あの場の私は何か圧倒的な威圧感に追い詰められていた。真夏なのに指が冷たい。指が動かなかったらどうしよう…まさかバイエルなのにそんな事ないよね…でも、うまく呼吸すらできないような圧迫感。
緊張がエスカレートするなか、いよいよアースラが私の所に来て、端的にバイエルの番号だけ告げた。
もう何番だったかなんて覚えていない。覚えているのは私の周囲に座る同級生からの「あ~…やっちまったね…」的な空気だけだった。
演奏が終わるとアースラは無言で後ろのエレクトーンへ移動していった。ハイいいですよ、とか、御苦労様でした、とかもない。アースラは最後まで鉄壁だった。

神奈川で惨敗を感じた私は絶望していた。あの愛知しか残っていないのではどうにもならないだろう。2次試験に行くというより、ういろうを買いに行くような気分だった。
愛知の実技試験は2項目だった。
ひとつは言語実技。控え室から中待ちに呼ばれ、色々な雑貨があるテーブルを示され、「今から3分間あげますので、この中の品物を自由に使って今からお話をひとつ考えて下さい。対象は3歳児、人数は20名の想定です。」
今の私なら「モノボケかよ!」と突っ込むところだが、当時はもちろん必死だ。しかも前の受験者が墜落したらしく1分で出てきてすぐ呼ばれたので、3分すら与えられなかった。もうしょうがない。愛知だもん。数えきれないほど通わせてもらった保育所での実習を思い出し、17歳の私は清々しいほど精一杯がんばった。あとは野となれ山となれ、だった。
続いて音楽実技は音楽室のような場所へ向かい、ひとりずつ呼ばれてピアノ試験。本当のピアノで良かった、感想はその程度だった。
新幹線まで使って片道2時間半もかけて来たんだから、やっぱり記念にういろうだけは買って帰った。

長い期間をおき、各県の試験結果が学校に届き、生徒が個別に呼ばれた。私が出向くと担任が右手を差し出し「おめでとう!」と笑った。
合格状況の詳細を確認すると、保育実習2次試験は、惨敗予想の神奈川はやはり落ち、愛知で合格という結果だった。
クラス47名中、愛知の2次まで合格できたのはたった4名だったという。賭けにも似た愛知進出だがそれで救われたお前のような生徒がいて良かった、と言う担任は、「あとは必ず卒業しろよ。お前は次に何かやったら退学なんだからな」と、すでに無期停学を経験済みの素行不良生徒に忠告することも忘れなかった。
このため?このあと卒業時期が近づくにつれて「退学になる夢」にうなされることになる。

この年、資格取得に至った生徒は約半数。その後合格率はどんどん下がり、母校の保育科は閉鎖された。でもあの夏は私の人生を大きく変えた夏として鮮やかに記憶に残っている。あの1年後に事故死してしまった彼の、まだ元気にゲキをとばしてくれてた思い出とともに。

私が「保母」の仕事にこだわるのは、あの夏の苦悩や挫折がいっぱい詰まっているからかもしれない。あのあと短大に行ってそちらでも保母資格をとったが、私の土台はやはり国家試験だ。
私は今も細々と保育士パートをしている。トータル12年の保育士生活では因縁のエレクトーンとの付き合いも発生し、上下2段の鍵盤+足鍵盤で「おうた」を弾けるようにもなった。ざまぁみろエレクトーン!

苦労した甲斐あって、保育士の仕事は本当に楽しい。大変だけど大変じゃない。
この職業に縁があって本当に良かったと思っている。
来週もお仕事頑張ろう。


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